「恋文大賞」授賞式に参列してきました
ご報告が遅くなりましたが、11月3日の文化の日に「恋文大賞」の授賞式に参列してまいりました。
晴れやかな表情の受賞者の方々や関係各位、そして報道関係の皆様を前に、私もこの「恋文大賞」の審査に携われたことを、心から光栄に存じたしだいです。
以下、その式典でお話申し上げた私の講評(要旨)を記しておきましょう。
なお、受賞作品は以下のリンクから読むことができます。
http://www.koibumi-kakimoto.jp/koibumi_vol02/index.html
1.一般の部について
「心を物で表し、物を心で表す」
これは、私が講師をつとめております「こども作文教室」でも、よく受講生に話す言葉です。
今回の受賞作品に描かれております「たった三行の父からの手紙」「お酒のラベル」「巨大な弁当箱」「母の日記のようなもの」、これらは、それを書いた、あるいは持たせた・読んだ・食べた方たちのいわば「心の結晶」のようなものです。
感情を直接表現しなくても、それだけでその人の想いが伝わってきます。
行間を読ませるというのは、このことを言うのでしょう。
今回の審査を通して、私はまさに、すばらしい人生の行間を味わうことができた、そんな作品の数々に触れた思いがいたします。
2.小中高生部門について
さて、学校の作文は、どうしても教師が読者を担うこととなり、生徒は教師を読者として想定してしまいます。
しかし、この入選作には特定の読者を想定(恋文《心の手紙》であるから当然ではありますが)しつつも、ここには第三者を意識している営みがあります。
筆者は相手へ、読者は筆者へという図式ですね。
その対象は一般の部ではどうしても故人となった親や配偶者である場合が多いのですが、小中高生の部においては、遠く離れた祖父母、まだ見ぬ母、単身赴任の父、血のつながっていない父母、そして既に他界した兄弟姉妹であったりします。
それがそのまま世情を反映しているかのようでもありました。
これらは、一般の部が、手紙の相手と接している年月の方が長いのに対して、小中高生の部はその接している年月の方が少ない場合が圧倒的に多くなります。
ですから、なおさら強い気持ちが前へ出る。まさに気持ちが筆を動かすわけですね。
そして、共通しているのは、そこに相手への限りない温かい想いがあるということです。
それが、読む者の心を打つ、ということになります。
正直に申しますと、私は審査の過程で少なからず涙をぬぐったこともありました。また、そのたくまざるユーモアに声をあげて笑ったこともあります。
惜しくも選には漏れましたが、最後まで私を悩ませた作品も一つや二つではなかったことを、ここに告白しておきましょう。
ところで注目すべきは、高校部門における10作品のうち6作品までが、同じ学校(長崎県立佐世保商業高校)の生徒で占められたということです。これは偶然のなせる業ではありません。聞けば彼ら彼女らは現に他のコンクールでも入賞経験を持っているとのことでした。
これはすなわち、文章力(表現力)は意図的な影響を経て培われるということの、何よりの証明ではなかろうかと思います。
作文トレーナーとして、この学校の指導なさった先生、そしてそのご指導のあり方にも心から敬意を表します。
今回の審査を通して、同じ物を見てもそこから何を感じるのか、何を伝えようとするのか、その視点・フィルターを鍛えることは可能であり、かつ重要なことであると痛感いたしました。
今、きわめて厳しい状況にあるこの日本において、鍛えるにふさわしい若い世代が、ここにいることを心強く、そして誇りに思います。
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