映画「戦火の馬」
主人公が数奇な運命をたどるというドラマはいくつもあるけれど、そして、主人公が馬と人間という違いはあるけれど、僕にはこの作品と「ベン・ハー」には相通じるものがあると思えてならない。 幸せな日々から、過酷な運命へと引きずり込まれ、それでもなお明日を信じる者の強さと気高さを描く。 馬の走るシーンがまことに美しく描かれているのも、共通点だ。 人と馬。 「戦火の馬」では、人間が崇高で馬がそれにつき従う生き物であるという図式を感じさせない。 その愚かしさ、崇高であると思われている精神の危うさ。 人間の愚かしさを、人間が諭しても伝わらない。 スピルバーグは、そのために馬を主役に立てたのだ。
強さを失わない者だけが享受できる奇跡。
神への畏敬。
描写の手法に違いはあるけれど、両作品にはそれが色濃く出ている。
そう、人は馬に語りかける。
馬は人の言葉を理解しているかもしれないが、理解していないのかもしれない。
そして、馬は言葉を発しない。身体の動きや鳴き声で、人が解釈するに過ぎない。
しかし、そこにこそドラマが生じる。
むしろ、人間の愚かしさと危うさを突き付けている。
英独の兵士がにらみ合う中での、馬の救出場面はその最たるものであろう。
直前まではお互いに銃口を向け合っていたのが、馬が鉄条網に絡んで動けなくなっていることを知るや、両軍の兵士が歩み寄ってそれを助ける。
その精神は崇高である。
ところが、馬が自由の身になると、とたんに両者がその所有権を主張し始める。
この時、スクリーンのこちら側で観ている者は、すでに神の視点で登場人物たちの言動を悲しい思いで受け取ることになる。
そう、『蜘蛛の糸』のお釈迦様のように。
人間を一度神の視点に立たせておいて、その上で自らの愚かしさを痛感させるしかない。
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