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2012年4月

平成24年度 学校法人永井学園 鹿島学園高等学校奈良キャンパス 入学式 学校長式辞

新入生の皆さん、入学おめでとう。
保護者の皆様、本日はお子様のご入学、まことにおめでとうございます。

さて、皆さんは何のためにこの学園に入学したのですか?
専門学校の諸君は、専門分野の知識や技術を学ぶため。高等学校の諸君は、基礎的な学力の上へさらにより高度な知識を身につけるため。
 …などなど、いや、ごもっとも。しごく当然ですね。
学校は勉強するところ。その通り。いわば知性を高める場所と言ってもいいでしょうね。

では、その知性とは何のためにあるのでしょうか?

実は先日、私はこんな経験をしました。
映画「アーティスト」を観たのです。
モノクロ作品で、しかもサイレント映画です。数々のアカデミー賞に輝いた作品ですから、知っている人も多いことでしょう。

モノクロですから、画面は白黒。
サイレントですから、セリフは聞こえない。必要最低限のセリフが字幕として画面の端っこに浮かび上がるだけ。

にもかかわらず、この作品は世界の人々を魅了しました。
いいですか、もう一度、言います。この作品は世界の人々の心を動かしたのです。
ちょっと乱暴な言い方かもしれませんが、それはこの映画がカラーではなかったからです。音声がなかったからだと、私は思っています。

観る人が、自分の経験や経験を総動員して、そこに自分だけの色を、そして音声をフィルムにかぶせていったからではないでしょうか。

つまり、観る人の知性や経験が、この作品の完成度を高めたのだと言えます。

話が抽象的ですか?

では、ミロのヴィーナスを例にとりましょう。
もし、あれがマネキンのようにリアルに色が塗られていたとしたらどうでしょう?
墨絵に色が塗られていたとしたら?
そして、マンガがアニメ化されたときに感じる自分の中のイメージと声優の声とのギャップは、どこからくるのか。
ほら、答えはおのずと出てきますね。

「制約されたところにこそ、芸術は生じる」
そう、人は表現を受け取る時に自分の知性と経験を総動員して理解していくのです。そこに感動が生まれるのです。
時に誤解も生じますがね。

でも、それが生きることです。
それが、人生を楽しむことだと、私は思っています。

皆さんは、この学園の中と外で、ぜひ自分自身の知性と経験を高めていってください。
そして、生きていくための力にさらに磨きをかけてください。

私たちは、そのお手伝いをすることを約束しましょう。

皆さんのこれから長く続くであろう、楽しき人生のために。

入学、おめでとう。

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映画「アーティスト」

「制約と省略があるところに芸術性が生れる」とは、使い古された言葉だが、この作品を観ることで、あらためてそれを痛感する。

この「アーティスト」は、モノクロ映画であり、かつサイレント映画だ。

モノクロゆえに、観る者自身が意識の中で色を当てはめていかなくてはならない。
サイレントゆえに、セリフを俳優たちの表情にかぶせていかなくてはならない。

いや、これらの文末の表現は正しくない。
「…ならない」のではなく、「気づかぬうちに…なってしまっている」に修正すべきだ。

情報の受け手側の意識作用によって、初めて作品たり得る。

皮肉にもこの作品の中で「トーキーなど芸術ではない」という場面があったが、それを実感させる手腕が巧みである。
さらに、サイレント映画としての古典的な手法と、実験的な手法をおりまぜる演出などは心憎いばかりだ。

そしてまた、音を効果的に入れたことで、性格描写がより鮮烈に伝わってくる。
ラストのダンスシーンの直後に発せられるセリフと、俳優たちの息づかいに、不覚にも涙があふれてきてしまった。
ここに、映画を愛する者の心情が集約されている。

この作品を観ているうちに、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」を思いうかべる人も多いだろう。
きっと、アメリカ人の心を鷲づかみにしたに違いない。

サイレントでもトーキーでもいいんだ、モノクロでもカラーでも、3Dでもいい。
とにかく理屈はどうでもいい。おれたちはドラマを作っているんだ。
そして、それを楽しんでいるんだ。

そんな熱い想いが伝わってくる。

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