エッセイ

蕎麦と矛盾

昼飯にと入った店で、ざる蕎麦を手繰りながら、朝刊のコラムを思い出していた。
「年賀状書きは死者と向き合う作業でもある」という一文である。喪中の便りをさしての言葉だ。
僕にも今年、数通の喪中葉書が届いている。ただ、その中にはお世話になった先輩お二人についての悲しい知らせもあった。
それぞれ別の職場での付き合いであったが、お二人とも僕と10歳も離れていない。まさに兄のような存在だった。しかもともに僕の勝手で不義理をしてしまった。訃報が直後に届かなかったのは無理もない。

もう少しきちんとした報告ができるまではと、思っていたのが悔やまれる。
人の命などはかない。よく言われる言葉だ。しかし、そんな一言では納得できない。

作家の池波正太郎氏が「人の人生の中でたった一つはっきりしていることがある。それは確実に死に向かって生きているということだ」という意味のことをエッセイの中で述べていた。
正月をシニカルにとらえた文人も、古来より多くいる。

確かに死に向かいつつ長寿・息災を願って年越しに蕎麦を食するのも、矛盾と言えば矛盾である。

矛盾…、
僕は、蕎麦猪口に湯桶を傾けた。
…もとよりそれは承知の上である。矛盾を重ねることで人は、生きていけるのにちがいない。それが、人を動かす。

彼の先輩方は、やはり今も僕を支えてくれている気がする。

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決着はお白州で

料理の完成は、調理が終わったときに成立する。
これが、原則だ。満漢全席からインスタント・ラーメンにいたるまで、この鉄則は貫かれている。
ただし、例外もある。その稀有なとして鍋料理が挙げられよう。鍋料理は、調理とともに料理の摂取がとりおこなわれる。その意味で、料理界ではきわめて特異な位置を占めている。他の者を寄せつけぬ厳格な一面もあり、時として出没する「鍋奉行」なる存在が、それを如実に物語っている。
それなりの順序・作法というものが存在すると、人々は暗黙のうちに了解している。

この年末年始に、鍋を囲んだ老若男女はどれほどの数にのぼるであろうか。
先ほど記した「鍋奉行」は、しばしば揶揄の対象となるが、彼は調理すなわち食事の過程でその場を制御せんとする者であり、言わば事業拡大の際におけるリーダーシップをとろうとする存在であるから、その印象は陽性で、彼を非難する声にもどこか親愛の情が漂う。
発展途上では、皆が上を向いている。だからこそ、底抜けの明るさがある。

小生が許せぬのは、鍋が終盤を迎えるころに、
「もう、煮詰まったらアレだから、そろそろ火を消そうか」
という手合いである。
前述のように、鍋料理は調理と食事が同時進行しているのだ。たとえば鍋の中で小刻みにふるえる豆腐、湯気の中で見え隠れしている白菜、そして生命が宿っているかのごとく律動をくり返す肉や魚。
火を消すことで、それらの動きが止まってしまうのだ。何より、鍋の中からグツグツという音が消えてしまうのである。つまり、調理を終えることすなわち料理に終止符を打つということになる。
とたんに、鍋の中は残り物。それに箸をつけるのは「残飯整理」と化す。まことにつまらぬ。迷惑千万。よけいなおせっかいも甚だしい。

そもそも「アレ」とは、いったい何か。
魚のおどり食いにはじまり回転寿司にいたるまで、この日本では食材が動くことに料理の価値があるということは、紛れもない事実である。
鍋の中が煮詰まって、何がいけないのか。
ほう、省エネを口にするか。笑止。ならば最初から生で食えばよろしい。食材を生で食することは、日本料理のもう一つの美徳ではないか。

皿の美しさも料理のうち。盛りつけは食の粋。焼肉はむせるほどの煙やにおいがあってこそだ。
そんなこともわからぬ輩を、小生は「鍋下手人」と呼んでいる。経験上「鍋奉行」と「鍋下手人」は同一人物ではない。
下手人はたいてい器の小さい奴だ。そうに決まってる。

人様の食事を勝手に切り上げてしまう犯罪者には、百たたきの上、市中引き回し。さらに、回転寿司屋で止まっているレーンの寿司を食わせるというのは、どうか。
今度、鍋奉行に「恐れながら…」と願い出ようと思っている。

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リーガルのウイングチップ

修理に出していた靴がもどってきた。
修理代を聞いて、驚いた。7000円を超えていたのだ。
言っときますが、7000円ですよ。たまげましたね。これじゃあ、ちょいとした靴が新しく買えちゃう。

でも、リーガルのウイングチップで気に入っていたから、そのまま捨てるには忍びなかった。
踵周りのところがだいぶほころびてしまい、靴底も減ってしまった。しかし、その分、僕の足にすっかり馴染んでいたのだ。

このリーガルのウイングチップというやつ、なかなかどうして頑固者でしてね。オーナーが履き慣れるのに一月はかかるという代物だ。そのかわり、丈夫なんだな。
人間でも、この手の連中は最初こそ愛想が悪いが、親しくなるとどうも離れがたい存在となってくる。

修理代を払う前に試し履きをしたら、足の甲や土ふまずのちょっと上のあたりの革の当たり方がなつかしい。そうそう、つま先の空間もこんな塩梅だったっけ。

ついでに、ほどけない靴ひもの結び方や、長持ちさせるための手入れの方法も教わった。

店を出る時には、すっかり気分がよくなっていた。

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なぜ、カップ麺のふたをはずさないのか?

カップ麺は、悲しい。
あの容器が、悲しい。
どんぶりに似て非なるところが、とても悲しい。
精一杯、本物のどんぶりのふりをしている。そこに、私は深い悲しみを感じるのだ。スナック麺なのに、一人前の食事として虚勢を張っている。


私は、スナック麺を本来の食事として考えていない。それを本来の一食として済ます人間にもなりたくない。
どんなに落ちぶれたとしてもだ。
だから、カップのふたは全部はずさない。
はずしたとたんに、それを本来の一食とする自分自身と対峙することになる。同時にスナック麺に「俺はれっきとした一食なのだ」という間違った認識を与えてしまう。


スナック麺のふたを全部取り去り、きちんとたたんでから、立ちのぼる湯気に目を細め、小ぜわしく割りばしを取り上げ、あろうことかそれを両の親指にはさみつつ合掌などしているところを他人に目撃などされたら…、考えただけで、私はいたたまれぬ。


ゆえに、今夜も私はカップ麺のふたをベラベラさせながら、発泡スチロールの容器に顔をうずめるのだ。

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カメラマンに必要なもの

テーブルに戻ると、背後から声がした。

「よろしければ、先ほど撮っていらっしゃった画像を拝見できませんか」

まずかったかなと、私は後悔した。

購入したばかりのカメラの試し撮りを兼ねて、神戸にあるジャズクラブに立ち寄り、店内を撮っていたのである。ライブの合間に、しかもストロボは発光させていないから、問題あるまいと思っていたのだが、やはり店側からすると迷惑な客と思われたに違いない。

振り返ると、初老の紳士が立っていた。

「デジタル一眼ですよね、それ」

と、彼はさらに私のカメラに顔を近づける。彼の手にも小さなカメラがあった。

なるほど、同好の士だったか。

「ええ、結構ですよ」

私はほっとして、カメラの液晶部分を彼に向けた。紳士は顔をほころばせながら、

「恐れ入ります。いや、じつはあなたがおもしろい角度から写真を撮っておられたものですから」

私が返事をする前に、

「すみませんね、ぶしつけで。この人は、音楽よりカメラの方に興味があるんですよ」

新しい声の主が登場した。いつの間にか、彼の連れまでが近寄ってきたのだ。

二人は画面をのぞきながら、盛んに感心してくれる。仕事以外では初対面の人間とこのように会話をすることをしない私だが、こうも持ち上げてくれると、ちょっと気分がよい。

ただ、こういう時は決まって、カメラ談義に移っていくものだ。そこが困る。というのも私はカメラについて詳しくないからだ。露出やシャッタースピードなどと言われると、とたんに及び腰になってしまう。

話の中で、どうやら連れの男性がカメラの紳士を、今日のジャズライブに誘ったらしいことがわかった。ならば話題をジャズに変えたほうが、こっちも大人の話ができる。

「こちらへは、よく来られるんですか」

私が水を向けると、今度は連れの男性が身を乗り出してきた。よし、ジャズならありがたい。たちまち、カメラの紳士の存在を忘れてしまうほどに、話に没頭してしまった。

驚いたことに、相手の男性の家が私の家とは一駅離れただけのところにあることもわかった。

休憩時間が終わりかけたので、先方も話にくぎりをつけたくなったのだろう。

「ところで、いい写真を撮るポイントっていうのは、何ですかね」

やはり、この手の質問が一番苦手だ。しかも相手は手綱をゆるめない。

「やっぱり、いいレンズを使う。いや、シャッターチャンスですかね。それともピントをはずさない、とか…」

私があいまいな表情を向けているところへ、先ほどのカメラ紳士がもどってきた。

そして、自分のカメラの液晶画面を突き出した。

「どうですか、これ」

見れば、彼と先ほどのライブに出演していた女性ボーカルとが、一枚の写真に納まっているではないか。しかも、鮮明に撮れている。

彼の得意げな顔に対抗して、私は自分のカメラをわざと邪険に扱いながら、こう話題を引き戻すのが精一杯だった。

「…いや度胸、でしょうね」

三人の男は、ともに笑った。     

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芋づる式の言い訳

やはり、慣れないことはしないに限る。

先ほどの写真もサイズを縮小することを失念し、とんでもない大きさの画像をはりつけてしまった。慌てて、サイズを小さくする。

さて、言い訳をもう一つ。

カメラを持つと、どうも人間は観察力が向上するらしい。僕の場合もそうだ。普段であれば見過ごしてしまう風景も、フィルムという額縁をあてはめてみると、とたんに魅力的になったりする。

カメラでスケッチする、京都はそれにふさわしい街だ。

そんな僕の額縁を通して見た京の街を、もう少し紹介しよう。Dsc_0028_2 Dsc_0032_2 Dsc_0039 Dsc_0041 Dsc_0044 Dsc_0049

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言い訳の一枚

Dsc_0019_4  デジタル一眼カメラを買う。

前から欲しいと思っていたが、なかなか手が出なかった。学生時代に小型映画を制作していたので、映像に関しては、この映画制作から入ったことになる。それなりに技法や理論も少しはかじったが、スチールカメラとなるとまったくの素人だ。

ただし、何でもそうだが素人が「その道」に入れ揚げてしまうと、始末におえなくなってしまう。

8㎜映画にのめり込んだときの苦い経験があるから、実はこのデジタル一眼については、自分の心を抑えに抑えていたのだった。

ところが、今回このブログを立ち上げたことによって「そのぅ、写真なんかも、ないとね…やっぱり、どうも寂しいや」

という理屈が、たちまちのうちに僕の頭の中を闊歩し始め、

「ちょっと、見るだけ」

が、

「ちょっと、触るだけ」

となって、気がつけば、店員の前でクレジットカードを差し出していた。

言い訳のつもりで、まずは一枚撮ってみる。

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