昨日、この作品について「いい意味でこぢんまりとした作品」とツイートしたけど、これについて少し書いてみたい。
かつて、ゴジラ映画は世界の度肝を抜いた。
当時、あのような特撮映画は針金入りの縫いぐるみを少しずつ動かして撮影していく、いわゆる「コマ撮り」でアニメーション化する手法が一般的であった。その世界の常識に対して、日本はその縫いぐるみの中に人間を入れて動かしたからである。
観客にとって、どちらが生き物として自然に映ったかは言うまでもない。
その伝統が、この作品に垣間見ることができる
と言うか、今の世だからこそ、このアイデアが生きてくる。
正直、僕が子供のころであれば、この作品の企画は通らなかっただろうなぁ。
何せ、当時は実写版の「鉄腕アトム」があったからね。
映画にロボットが出てきたら、それは人間が入ってるに決まってると納得して観ていた。いや、人間が中に入っていることを知りながら、それでもなお、そこに本物のロボットの存在を想定して観ていたものだ。
そう、ちょうど歌舞伎や人形浄瑠璃の黒子が舞台上にいるにも関わらず、意識の上ではそれを存在していないものとして鑑賞しているようなものだ。
どうも、日本人にはそういう特殊な鑑賞の仕方のDNAがあるらしい。
それはともかく、この「ロボジー」、どうも物足りない。
おもしろくないかと問われれば、「いや、そんなことはない」と答えられる。
だけど、もう一度観たいかと言われると、これが、ねぇ…。「うーん」と腕を組んで首をかしげざるをえない
はっきり言っておこう。僕は、矢口監督の諸作品が大好きなんだ。
だからここだけの話、どうも映画公開前に、この作品中のいくつかのシーンが何らかの理由でカットされたのでないかと睨んでいる。
そうでなきゃ、納得がいかない。
たとえば、ニュー潮風(ロボットの名前)の設計図の扱い。
この図面の存在が、二人(ロボット中に入るじいさんと、そのロボットに魅入られた女子大生)の登場人物の心理を変えることとなり、そしてまたこの作品のテーマを表出させる役割を果たす。
ところが、この小道具の扱いが実に荒いんだなぁ。
これ、何かの間違いじゃありませんか?
じいさんの心境の変化にいたっては、不自然極まりない。
「ロボットの中に人間が入っているのではないか」
その疑惑を晴らすための記者会見で、当の本人が事の真相をぶちまけようとしていたのに、その場に臨んで急に秘密を守ろうとしたこと。
詳しくは控えるけど、コスプレマニアの「作品」が伏線として張られているにも関わらず、その「作品」が唐突に利用されるのが何よりの証拠じゃないか。
おそらくじいさんは、会見直前にあの設計図の存在をはっきりと認識したことによって、研究者たちの熱意を感じとったはずなのである。だからこそ、秘密を守ろうとしたのだ。
でも、その部分が描かれていない。
そして、女子大生の心境の変化についても同様のことが言える。
その設計図を一目見ただけで研究者たちの熱意を感じ、その会見に駆けつけるのであれば、じいさんの心境の変化を先に明確に観客に知らせておかなくては、観客は彼女に対して一体感を感じることはできないし、ドラマとしてクライマックスへも導いていけないのである。
見えているものを見えていないと認識する日本人でも、見せるべきものを見せなければ、ドラマとしては理解できない。
これまで作品の中で伏線を丁寧に扱ってきた矢口監督なら、そんなことは百も承知のはずだ。
何かの間違いであると、信じたい。
その意味を込めた「こぢんまり」なのである。
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