映画の小窓

映画「アーティスト」

「制約と省略があるところに芸術性が生れる」とは、使い古された言葉だが、この作品を観ることで、あらためてそれを痛感する。

この「アーティスト」は、モノクロ映画であり、かつサイレント映画だ。

モノクロゆえに、観る者自身が意識の中で色を当てはめていかなくてはならない。
サイレントゆえに、セリフを俳優たちの表情にかぶせていかなくてはならない。

いや、これらの文末の表現は正しくない。
「…ならない」のではなく、「気づかぬうちに…なってしまっている」に修正すべきだ。

情報の受け手側の意識作用によって、初めて作品たり得る。

皮肉にもこの作品の中で「トーキーなど芸術ではない」という場面があったが、それを実感させる手腕が巧みである。
さらに、サイレント映画としての古典的な手法と、実験的な手法をおりまぜる演出などは心憎いばかりだ。

そしてまた、音を効果的に入れたことで、性格描写がより鮮烈に伝わってくる。
ラストのダンスシーンの直後に発せられるセリフと、俳優たちの息づかいに、不覚にも涙があふれてきてしまった。
ここに、映画を愛する者の心情が集約されている。

この作品を観ているうちに、ジーン・ケリーの「雨に唄えば」を思いうかべる人も多いだろう。
きっと、アメリカ人の心を鷲づかみにしたに違いない。

サイレントでもトーキーでもいいんだ、モノクロでもカラーでも、3Dでもいい。
とにかく理屈はどうでもいい。おれたちはドラマを作っているんだ。
そして、それを楽しんでいるんだ。

そんな熱い想いが伝わってくる。

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映画「戦火の馬」

主人公が数奇な運命をたどるというドラマはいくつもあるけれど、そして、主人公が馬と人間という違いはあるけれど、僕にはこの作品と「ベン・ハー」には相通じるものがあると思えてならない。

幸せな日々から、過酷な運命へと引きずり込まれ、それでもなお明日を信じる者の強さと気高さを描く。
強さを失わない者だけが享受できる奇跡。
神への畏敬。
描写の手法に違いはあるけれど、両作品にはそれが色濃く出ている。

馬の走るシーンがまことに美しく描かれているのも、共通点だ。

人と馬。
そう、人は馬に語りかける。
馬は人の言葉を理解しているかもしれないが、理解していないのかもしれない。
そして、馬は言葉を発しない。身体の動きや鳴き声で、人が解釈するに過ぎない。
しかし、そこにこそドラマが生じる。

「戦火の馬」では、人間が崇高で馬がそれにつき従う生き物であるという図式を感じさせない。
むしろ、人間の愚かしさと危うさを突き付けている。
英独の兵士がにらみ合う中での、馬の救出場面はその最たるものであろう。
直前まではお互いに銃口を向け合っていたのが、馬が鉄条網に絡んで動けなくなっていることを知るや、両軍の兵士が歩み寄ってそれを助ける。
その精神は崇高である。
ところが、馬が自由の身になると、とたんに両者がその所有権を主張し始める。

その愚かしさ、崇高であると思われている精神の危うさ。
この時、スクリーンのこちら側で観ている者は、すでに神の視点で登場人物たちの言動を悲しい思いで受け取ることになる。
そう、『蜘蛛の糸』のお釈迦様のように。

人間の愚かしさを、人間が諭しても伝わらない。
人間を一度神の視点に立たせておいて、その上で自らの愚かしさを痛感させるしかない。

スピルバーグは、そのために馬を主役に立てたのだ。

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映画「はやぶさ 遥かなる帰還」

この映画に、ちょっと面白いお菓子が出てくる。
かりんとうである。

今はもう食べなくなったなぁ、このかりんとう。
ゴツゴツした外観は、無骨そのもの。
「自分、不器用ですから…」
誰かのせりふじゃないけれど、お菓子の世界では、きっと順風満帆に生きてきたんじゃないことが、容易にうかがい知れる。

かりんとうはまた、宇宙空間に浮かぶ小惑星「イトカワ」をもイメージさせる。
孤独な影を宿す。

さて、映画は巧みな人物配置。
新聞記者を語り手とすることで、素人にもわかるように語られている。またそれが物語進行を単調さから救っている。

神仏に頼らない山口教授が、願掛けにいった先で、孫受け先の社長と語り合うシーンの、その社長の指先の演出などは、失礼ながら東映にしては珍しくさらりとしたタッチである。
そう、東映としてはめずらしく、まっすぐな映画なのだ。

ペンシルロケット、カッパロケット…なつかしい。
日本がロケットを打ち上げる意味を分からせてくれた。

噛み砕くと、口中がとんでもない騒ぎになるが、そこが味わいだ。さまざまな人間ドラマがぜいたくに盛り込まれている。
混乱の中に秩序が生まれ、やがてほのかな甘みが残る。あきらめなかった者だけが味わえる豊かさだ。

そんな、かりんとうのような作品であった。

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映画「ALWAYS三丁目の夕日’64」

少なからず文章に携わる者として、この作品は心を打つシーンがある。

万年筆にまつわる場面だ。
万年筆は、当時入学祝いの代名詞であった。

「小説を書きたい」

血のつながらない竜之介を師と慕う淳之介が手にする万年筆は、まさに物書きにとっての刀のようなもの。

自分と同じ辛い道を歩ませたくないと思う竜之介の、自分もかつて父親から同じように言われた言葉を発した後の、子どもの学制服の胸ポケットに差してやる姿は、元服の儀式そのものだ。

子が親を乗り越えていく、そんなリズム残しながら、この映画はエンドタイトルを迎える。

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映画「ロボジー」

昨日、この作品について「いい意味でこぢんまりとした作品」とツイートしたけど、これについて少し書いてみたい。

かつて、ゴジラ映画は世界の度肝を抜いた。
当時、あのような特撮映画は針金入りの縫いぐるみを少しずつ動かして撮影していく、いわゆる「コマ撮り」でアニメーション化する手法が一般的であった。その世界の常識に対して、日本はその縫いぐるみの中に人間を入れて動かしたからである。
観客にとって、どちらが生き物として自然に映ったかは言うまでもない。

その伝統が、この作品に垣間見ることができる
と言うか、今の世だからこそ、このアイデアが生きてくる。
正直、僕が子供のころであれば、この作品の企画は通らなかっただろうなぁ。
何せ、当時は実写版の「鉄腕アトム」があったからね。
映画にロボットが出てきたら、それは人間が入ってるに決まってると納得して観ていた。いや、人間が中に入っていることを知りながら、それでもなお、そこに本物のロボットの存在を想定して観ていたものだ。
そう、ちょうど歌舞伎や人形浄瑠璃の黒子が舞台上にいるにも関わらず、意識の上ではそれを存在していないものとして鑑賞しているようなものだ。
どうも、日本人にはそういう特殊な鑑賞の仕方のDNAがあるらしい。

それはともかく、この「ロボジー」、どうも物足りない。
おもしろくないかと問われれば、「いや、そんなことはない」と答えられる。
だけど、もう一度観たいかと言われると、これが、ねぇ…。「うーん」と腕を組んで首をかしげざるをえない

はっきり言っておこう。僕は、矢口監督の諸作品が大好きなんだ。

だからここだけの話、どうも映画公開前に、この作品中のいくつかのシーンが何らかの理由でカットされたのでないかと睨んでいる。
そうでなきゃ、納得がいかない。

たとえば、ニュー潮風(ロボットの名前)の設計図の扱い。
この図面の存在が、二人(ロボット中に入るじいさんと、そのロボットに魅入られた女子大生)の登場人物の心理を変えることとなり、そしてまたこの作品のテーマを表出させる役割を果たす。
ところが、この小道具の扱いが実に荒いんだなぁ。

これ、何かの間違いじゃありませんか?
じいさんの心境の変化にいたっては、不自然極まりない。
「ロボットの中に人間が入っているのではないか」
その疑惑を晴らすための記者会見で、当の本人が事の真相をぶちまけようとしていたのに、その場に臨んで急に秘密を守ろうとしたこと。
詳しくは控えるけど、コスプレマニアの「作品」が伏線として張られているにも関わらず、その「作品」が唐突に利用されるのが何よりの証拠じゃないか。
おそらくじいさんは、会見直前にあの設計図の存在をはっきりと認識したことによって、研究者たちの熱意を感じとったはずなのである。だからこそ、秘密を守ろうとしたのだ。
でも、その部分が描かれていない。

そして、女子大生の心境の変化についても同様のことが言える。
その設計図を一目見ただけで研究者たちの熱意を感じ、その会見に駆けつけるのであれば、じいさんの心境の変化を先に明確に観客に知らせておかなくては、観客は彼女に対して一体感を感じることはできないし、ドラマとしてクライマックスへも導いていけないのである。

見えているものを見えていないと認識する日本人でも、見せるべきものを見せなければ、ドラマとしては理解できない。
これまで作品の中で伏線を丁寧に扱ってきた矢口監督なら、そんなことは百も承知のはずだ。
何かの間違いであると、信じたい。
その意味を込めた「こぢんまり」なのである。

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映画「阪急電車」

ドラマは人物の心理の変化を描くことで、成立する。
映画「阪急電車」のように複数の人物の心理の変化を同時に描いていくのは難しいが、演出者としては魅力的なテーマでもある。

ここでは「聞く」という行為に焦点を当てて、ストーリーを組み立てていった。
つまり、見ず知らずの相手の話を聞くということである。
そのために、日常の風景に非日常を持ちこんでみせる。中谷美紀が純白のドレスで電車に乗るシーンは、その最たるものだ。

日常と非日常という言葉を使ったが、これはそのまま「公」と「私」という言葉に置き換えてもよいだろう。
純白のドレスは、婚約者に裏切られた女の私情の表れである。それを電車という「公」の場に持ち込んだわけだ。とたんに周囲は緊張感に包まれる。
老婦人が、それを察して彼女の話を聞いてやる。
言葉を交わすうちに、気丈に振舞っていた女性の目から涙があふれ出る。

「私」を「公」に持ち込むことのばかばかしさに気付いた彼女は、白いドレスを捨て、引き出物をゴミ箱に入れる。
そうやって、心を軽くしていく。

モバイルは便利ではある。
しかし、それはあくまでも「私」とい側面を持つ。「公」に持ち込むのは愚かだ。
「公」の場で「私」を携帯している人間があまりに多すぎる。いや、携帯するだけならいい。それをこれ見よがしに振り回す者がいる。
あらためて「公」の場で聞くことの大切さを、この作品は問うているのではないか。

だからこそ、ヘッドホンを耳にあてがっていた軍事オタクの青年もそれをはずし、「私」から「公」へと目を向け始めたのである。

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映画「RAILWAYS 49歳で電車の運転士になった男の物語」

ドラマの成否は、登場人物の心理の変化の描き方にかかっている。
そのため、主題のアンチテーゼから物語を始めるというのが、定法だ。この作品でも、それが踏襲されている。
すなわち、日々の仕事に追われ家族を顧みることのなかった筒井肇(中井貴一)が、同期の親友の死と自分の母親の入院を機に、かつての夢であった電車の運転手になるというストーリーが展開されるのである。

配役の妙といい、ロケーションの魅力といい、好ましい作品にはなっていた。
しかし、観終わった後にどうも違和感が残る。どうしても、ストーリーの細部に納得できないものがある。
それは、小道具の使い方だ。肇の親友である川平の息子が難病に苦しむ病床で作ったという小さな彫刻である。しかし、これがこの作品の中で果たす役割は非常に大きい。主人公のみならず他の登場人物の心の変化を促す物だからである。
しかるに、その彫刻に関する描写が肇と川平の台詞のやりとりだけで終わってしまっているのだ。これでは、物に心がこもらない。つまり、観客はこの彫刻にそれを作った子どもの境遇や、その父親である川平の思いを実感できないのである。
したがって、このストーリーの前半と後半の主人公の心境の変化や、物事に対する反応の差異に納得できないということになる。

これは、僕の想像であるが、企画段階でのシナリオの書き直しの過程で、後半部分のストーリー展開を重視するあまり、前半におけるこの小道具に対する描写が省かれてしまったのではないかという気がしてならない。
それほどに説明不足だった。
よい題材たっただけに、ちょっと残念でもある。

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映画「書道ガールズ」

映画を観て、強烈な思いに駆られるというのはめったにあるものではない。
僕の場合、「スウィング・ガールズ」でピアノを始めようと思ったのが、最初だ。二度目が、この「書道ガールズ」である。
「燃えよドラゴン」を観てもカンフーを始めようとは思わなかった男が、女子高校生を主人公にした作品ばかりに奮起してしまい、どうもばつが悪いのだが、本作で書道をもう一度やってみようと思った。

もともと書道はやっていて、学校でも書写を担当してきたが、このようなパワーのある書というものを考えたことがなかった。それが、もっと違う形でできるのではと思えてきたのだ。

この映画のテーマは「再生」
町、生徒、教師、生活する人々の再生である。
予告編を観たときに、これに近い物語はいくつも知っているという先入観が生まれた。それでも、今は、そういう映画を観たいとも思ったのだ。
人物背景の描きかたに少し欲張ってしまった面があり、消化不良は否めないが、それでも体の中から突き上げてくるものがある。むしろこういうタイプの作品の方が、僕は好きだ。

書道をやっている息子にも観てほしくなった。いや、私の担当している生徒にも観てもらいたい作品である。

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「椿三十郎」

さて、連休の関西周遊の旅をしめくくるのは、やはり映画。

実は、黒澤作品の中で一番好きなのが、この「椿三十郎」なのである。
それまでの東映時代劇に代表される剣劇ではない。そのことに異常な興奮をおぼえた。こんな知的でユーモラスなドラマを、しかも時代劇でやってしまうという黒澤明の手腕に、感嘆した。

意表をつく台詞の重ね方、超ローアングルによる迫力ある映像。
スクリーンで観るのは、学生時代に自主上映作品(なつかしいなぁ、この響き)として、16ミリ映写機で上映したとき以来である。
もちろん、今までにビデオやDVDで、何度観てきただろう。
それでも見落としてきたものが、たくさんあった。

映画はスクリーンに合わせて作られている。こんな当たり前のことをあらためて感じさせられた。

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「NINE」

この作品を、ある映画監督の再生物語として片づけてしまうには、あまりにもったいない。
単純なようでいて、入り組んだエピソードの数々。それにモノクロ画面の妙、照明の巧みさが折り重なっていく。
フェリーニの香りがし、トリュフォーの「アメリカの夜」も思い起こさせた。

しかし、それらと一線を画すのは、本作がミュージカルであるということ。
ミュージカルと言えば、フレッド・アステアやジーン・ケリーの昔から、舞踏の場面を競って三次元化させることを競っていた。
今は、違う。

ロブ・マーシャル監督は、「シカゴ」でも舞台のような二次元化をあえて試みようとした。今回はそれをさらに進化させたと言える。実はマイケル・ジャクソンの「THIS IS IT」でも同様の試みがされていると、私には感じられてならない。

それはともかく、ミュージカルにリアリズムを求めようとする現代の志向が、そうさせるのだろうか。つまり、ダンスシーンを登場人物の内面的思索の具象化であると位置付けたいのか。

いや、むしろバーチャルと現実の見分けが困難な観客に対しての配慮からなのか。
考えさせられる作品であることには違いない。

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